ネット上、とくにSNSでは「辛いことがあったら逃げてもいいよ」「自分が潰れるまで頑張らなくてもいいよ」と温かい言葉が、たまに拡散されて、話題になることがあるものす。
もちろん、学校でいじめを受けている人や、ブラック企業で心身ともにすり減らしてまで働いている人からすれば、こうした言葉はまさに正論であり、安心できる場所に逃げて生活を立て直すことを推奨するのも、ごもっともでしょう。
しかし、逃げることが絶対視する風潮に押されて、逃げ癖がつくことに対しては、個人的に疑問があります。
逃げ癖は逃げてばかりな自分に対して自信が持てず、自分の精神的な不安定さから身近な他人や集団に強く依存してしまい精神的な自立ができなくなる問題があります。
また、ただ逃げるだけでなく、社会からドロップアウトし、交友関係が絶たれて孤立を招く。そして、孤立していることに目をつけられ、胡散臭い金儲けをする人の搾取の対象(=情報弱者)になりかねない最悪の末路を考えると、逃げ癖は決して手放しで肯定できるものではないと感じます。
(もちろん、「劣悪な環境でも我慢して居続けるべきだ」というわけではありません)
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自信を喪失し無力感に襲われる
勉強にしろ、スポーツにしろ、仕事にしろ、恋愛にしろあれこれ手は出すものの、「めんどさくい」「続けるの怖い」「プレッシャーに耐えられない」と感じて途中で逃げ出すことが続くと、「自分は何一つ最後までやり遂げることができないダメな人間だ」と自信を喪失すると同時に、無力感に襲われてしまいます。
また、この無力感は「自分は何をやってもダメなんだから、だったら最初から何もやらないほうが傷つかずに済む」という諦めの境地に至った考えを身に付け、積極性が失われてしまうことがあります。(=学習性無力感)
もちろん、自分で何ひとつやり遂げることができなかったため、自分の中に「(結果はどうあれ)これをやり遂げたんだ!」という、確かな自信や自己肯定感や育まれません。
そのことが、
- 自信を持てない自分に自己嫌悪をする。
- 自分に自信がないから長いものに巻かれるように他人や集団に依存する。
- 認知を歪めて「逃げている自分の方が賢くて、バカ正直に努力している奴は頭が悪い」と自己正当化する。
などの行動となって現われることがあります。
逃げている不甲斐ない自分を自己正当化する
上でも触れましたが「逃げている自分の方が賢くて、バカ正直に努力している奴は頭が悪い」というように、逃げ続けている現実を自分に都合よく解釈し、自己正当化することです。
自己正当化をする方法や言動によっては、逃げずに生きている人を挑発するような言動をして顰蹙を買ってしまい、ますます見たくない現実と折り合うことに葛藤を覚え、自己正当化の言動がエスカレートし、炎上に発展することもあります。
なお、炎上が起きても「これは、自分の意見が多くの人から賛同を得た」と見てしまうことが、自己正当化の怖さでもあります。
また、邪推や下衆の勘ぐりなのは重々承知ですが「人生辛い時に逃げれば上手くいく」という言説をネット上でつぶやく人のなかには
- 「自分が逃げたという選択は間違っていないという確証を得たい」
- 「自分の選択は他人から肯定され認められるべきものだと感じたい」
という願望があるために、このような言葉を何度もつぶやいているのではないかと感じることがあります。自分の自己正当化のために他人を利用する、他人の承認なしでは自分で今の状況を肯定することができないほど、強い不安や葛藤を抱いているようにも見えます。
「逃げた」ということで自分の評価の低下を招く
自分が他人の意見に惑わされず逃げる自由があるとの同じく、他人や組織が自分の「逃げ続けていること」とどう捉えるかという自由があります。
「私は逃げ続けているけど、贔屓目に見て欲しい」と訴えても、相手がその要求をしっかり受け入れてくれるかどうか、逃げ続けている本人が自由にコントロールできるものではありません。
(もちろん、自分の評価の低下を招く恐れがあるからこそ、劣悪な環境から逃げ出せずなくなる問題もあり複雑な気持ちになります)
「印象に残らない人」と見られて存在を忘れられてしまう
また、何事でも逃げ続けているために、「自分は○○ができます」と自分の強みを他人にアピールできないのもデメリットの一つです。
例えば、学生の場合、勉強をしっかりしていて誰もが名前を知る有名大学に合格できたという結果があれば、それを自己アピールの材料として就活、友達・恋人作り、学校内外での活動などで利用できます。
部活動で結果や記録を出していたり、最後の大会までやり遂げたという記録があれば、それを自己アピールの材料として利用可能。そのほかにも、学校行事、委員会活動、在学中のボランティア活動…など、何かしらやり遂げていれば、それを材料にして自分という人間を他人にアピールしやすくなります。
しかし、勉強から逃げ、部活も途中で辞めて、学校行事も消極的であった場合、自分で自分をアピールできる材料が乏しいので、周囲から見て自分は、「特徴が無い」「影が薄い」「あまり印象に残らない」人として見られてしまいます。(そういう特徴がないことを「真面目(系クズ)」と呼ぶこともある。)
また、印象に残りづらいために、学校を卒業して時間がたてば当時の同級生や先生の記憶からも忘れられてしまいがち。
同窓会に呼ばれることもなければ、そもそも顔と名前を思い出す段階までたどり着かない。かろうじて卒業アルバムに名前と顔は載っているものの、実際にどんな人だったか思いだそうにも「あまり印象に残らない人」と曖昧で中身の無いものしか思い出せず、次第に忘れ去られてしまうのです。
社会からのドロップアウト
ただ学校にいかない、仕事をしていないという状態だけではなく、普通に学校や会社に行っている人との接点すらなくなり、社会から孤立してしまうことが問題です。
孤立期間が長引けば、その分元の社会生活に戻る心理的なハードルも高まります。また、仮に社会に復帰しようとしても、履歴書に書けない「空白の期間があった」事を他人から悪材料視されることで、社会復帰が難しくなることもあります。
(もちろん、社会復帰の難しさも劣悪な環境を我慢して逃げずに居続ける一因なので、たいへん複雑な気持ちになります。)
胡散臭い人に情報弱者とみなされ搾取される
普通に社会生活を送っている人との接点がないことは、普通に社会生活をしているのであれば、まずお目にかかることはないであろう胡散臭い人に出会ってしまっても、その人が胡散臭くて関わりを持つべきではないと判断することができず、関係を持ってしまうリスクがあります。
胡散臭い人がやっている胡散臭いビジネスを「これは胡散臭いから関わってはいけない」と判断するだけの知識や情報はないし、無力感が影響してか検索して調べることすらしようとしない。
ましてや社会との接点がないために「関わっちゃダメ」と忠告をしてくる人もおらず、胡散臭い人からすれば、よくできた情報弱者…更に悪く言えば「カモ」と認知されてしまいます。
なお、「胡散臭い人」の一例を上げるのならば…
- マルチ商法、ねずみ講の関係者
- カルト宗教の信者、および関係者
- 「儲かる話がある」と言って近づく情報商材屋、詐欺師の類
- 自己啓発、スピリチュアルなどの高額セミナーの関係者
- 「ブログやSNSで自由な生き方!好きを仕事にする!」と威勢のいいこと叫ぶ人達(自称プロブロガーなど)
など、リアル・ネット関係なく、いかにも胡散臭く、香ばしく、グレーな金の稼ぎ方をしている、人たちがいい例です。
とくに、こうした胡散臭いビジネスをしている方々は
- 不登校、あるいは退学経験のある人
- 今の職場に不満を抱えており退職・転職願望がある人
- 経済的な将来不安をなんとかしたい気持ちが強い人
- 家族関係や人間関係の悩みを誰かに相談したい人
- 楽して金を手に入れて悠々自適な暮らしを送りたい人
などの、何らかの形で一般的な社会生活を送っていけなくなったり、あるいは一般的な社会生活そのものに疑問や不安、生きづらさを抱いている人に、まるで優しく寄り添うかのように近づいては堕落させる。そして、時間・労力・金銭を搾取します。
また、堕落したことが原因で、元々所属していた人間関係に戻れなくさせることは、相手を経済的にも心理的にも支配できる状況が、結果としてできている怖さがあるとも言えます。
「逃げることを応援した人=協力者」とは限らない
繰り返しになりますが、もちろん個人的には、ブラック企業などの身の安全が保証されない劣悪な環境から逃げることそのものは否定しません。
しかし逃げることを応援してくれた人が、逃げたあとの生活を保障したり、支援や協力をしてくれる人ではないことは、よく熟知しておくべきだと思います。
また、胡散臭い人のところでも触れたように、応援しているのはあくまでも搾取対象として自分の元にホイホイ近づかせるためであり、逃げる人の人生をサポートするという目的ではないことも考えられます。
「逃げてもいいよ」というのはたしかに正論ですし、絶対的な正義として扱われる言葉でしょう。
しかし、そのことは「逃げてもいいよ」と言葉を放つ人が持つ、裏の目的や邪悪さまでも覆い隠し、言葉を発信する人に対して疑いの目を向けられず、あっさり信じ込ませるために使うこともできる危うさを兼ね備えている言葉とも感じます。
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