ボディービルダーのような逞しい筋肉は、男性に限らず女性の間でも強さや逞しさの象徴とされ、鍛えられた肉体に憧れの気持ちを抱く人は少なくありません。
とくに、スポーツや仕事の場面でストレス耐性が重要視される今の日本では、筋肉モリモリな人はメンタルが強い、自信がある、というような精神的な強さも兼ね備えていると思われる事は少なくありません。
就職活動で文化系よりも体育会系の人を優先して採用したり、運動部に所属している人を高く評価する背景には、そういった精神的な強さを評価していると考えることもできます。
こういった思考は「マッチョイズム」と呼ばれるものであり、筋肉信仰や男らしい逞しさを中心にした考え方で、スポーツや部活だけでなく、ビジネスや日常生活の場面でも見かける考え方で、前述のように肯定的に捉えられる考え方です。
しかし、一般的に良いと思われるマッチョイズムにも問題があり、困ったときはなんでもマッチョでゴリ押すマッチョイズムが嫌いという人もいます。
体育会系の(悪しき)伝統である精神論や根性論とも相性がよいマッチョイズムに苦手意識を感じる人は少なくありません。
今回はマッチョイズムが抱える問題についてまとめます。
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マッチョイズムとは?
「筋肉は裏切らない」「筋トレをすれば人生は上手くいく」いうような筋肉に過剰な期待を抱いたり、考え方の基準が筋肉に集中している思想や信条を「マッチョイズム」といいます。
「マッチョイズム」は筋肉から連想して、男性らしいたくましさや強さ、好戦的な姿勢こそが正義であるという考え方や、体育会系の人特有のノリや文化を表す言葉としても使われています。
マッチョイズムは男らしい強さやたくましさをメインにした考え方のため、メンタルを鍛えるためにマッチョイズムを取り入れる人も多くいます。
しかし、マッチョイズムは後述のように飛躍した論理や主観的な見方の強い考え方のため、かえって不安やストレスに敏感になったり、必要以上に他人を警戒して攻撃してしまい、人間関係の衝突を起こしやすい考え方だという声も上がっています。
マッチョイズムが持つ問題
マッチョイズムの人が高確率で行う筋トレ。筋肉がつくことでストレスや不安に強くなる、そのために筋トレをするのは実際に科学的な効果が証明されています。
では、なぜ筋トレでストレスや不安を感じにくくなるかというと、それは筋トレをすることで「テストステロン」と呼ばれるホルモンが分泌されるからです。
テストステロンのメリット・デメリット
不安にならないために筋トレに打ち込むことで、男性ホルモンの一種「テストステロン」が分泌されます。テストステロンには、ストレスを感じにくくなったり、不安や憂鬱な気分になる事を防ぐという研究結果も出ています。
男性ホルモンはいわゆる男性らしい強さや逞しさ、バイタリティなどの精神面や考え方に強い影響を与えるホルモンであり、日頃から適度な運動習慣のある人ほどテストステロンが多く分泌され、うつ病などの心の病にかかるリスクが低くなります。
実際にうつ病などの精神病の治療にもテストステロンは役立っており、ポジティブな考え方や日々の活力の源となるホルモンです。
しかし、テストステロンには攻撃や闘争本能を高める作用や、他人からの干渉を拒み、一人でいたいという孤独感を高める作用があることもわかっています。
筋トレをしたりハードなトレーニングで体を鍛えている人であれば、十分テストステロンは分泌されていると考えられるので、ポジティブさ行動力がある一方で、他人への攻撃性や敵対する感情が高まっている状態にあることが多くなります。
マッチョイズムは攻撃性を肯定する理由になってしまう
他人に対する攻撃性が高まるということは、言い換えれば他人を敵とみなす心理(動物で言うところの威嚇行動)が働いる状態です。
他人を敵と見るからこそ、仲良くやろうとするよりも周囲との関わりを避けてしまうようになります。攻撃性が高まれば当然コミュニケーションの場面で衝突する事も多くなります。
筋トレで筋肉が付き気が大きくなっているのをいいことに、周囲に乱暴な言動をしてしまっては自分が他人を不安にさせてしまっていることになります。
また実際に筋肉がある人とそうでない人とでは、周囲に与える心理的なプレッシャーは変わってきます。体が大きく筋肉がある人に迫られると及び腰になりますが、背が小さく筋肉が少ない細身の人に迫られても恐怖感を感じないのと同じです。
マッチョイズムに傾きすぎると、そういった他人への乱暴な行動や攻撃性を肯定してしまい、必要以上に相手を見下したり、喧嘩を売るような行動が目立つようになります。
また、筋肉があるからこその全能感を感じて、今の自分の考え方についてこれない人を切り捨てる、自分のことをわかってくれる人だけと付き合えばいいという、排他的な考え方につながってしまいます。
不安を感じるからこそ攻撃的になりやすい
このような攻撃的な行動や排他的な考え方が起きるのは、テストステロンによるものと考えることができる一方で、テストステロンが分泌されたことで、より自分が普段から感じる不安やストレスに敏感になっていると考えることもできます。
また、筋トレをしたことによる達成感のわりに、自信の無さや自己肯定感の低さを感じてしまうことで、精神的なバランスが取れなくなり不安を感じやすくなっていると考えることもできます。
自分の心の奥底では、どこか自分が弱い存在で他人から攻撃(いじめなど)のターゲットになるのではないか、という考えがある人がマッチョイズムに走っても、逆に不安やストレスに襲われ、過度に攻撃的になってしまった場合は、自分の不安を感じやすい性格にも目を向けることが重要になります。
意識高い系と呼ばれる人のように、理想と現実の自分の姿にギャップがあると不安の元になってしまいます。まずは出来る範囲でいいので、少しずつ理想と現実のギャップを埋めていくことで不安は小さくなっていきます。
精神論や根性論と結びつきやすい
強さや男らしさが考え方の中心となっているマッチョイズムは、精神論や根性論に結びつきやすい考え方と共通しているところがあります。
スポーツや仕事で高いパフォーマンスを上げたければ、その人それぞれにあったトレーニングや考え方を身につけて長所を伸ばす、短所を改善するなどの時間のかかる方法をとることになりますが、マッチョイズムに傾きすぎると、「パフォーマンスが出ないのは筋肉がないからだ!」という、ハチャメチャな結論に至ってしまうことになります。
精神論や根性論の場合なら「パフォーマンスが出ないのは精神力や根性がないからだ!」という飛躍した結論にたどり着いてしまうように、マッチョイズムは筋肉や筋肉が持つ強さ、たくましさががすべてという、冷静に考えれば偏った考え方にすぎません。
とくに精神力や根性論同様に、マッチョイズムは極めて主観に基づいたワンパターンの考え方なので、客観性に欠け組織を動かすには的外れなアドバイスになる確率の高い考え方といえます。
偏った考え方はその分余計にあれこれ考える時間が減るので、悩むことが多い人には時間の節約になるように思えますが、結果としてしっかり考えて下した結論よりもかえって時間や労力を使ってしまい、非効率的なルートを歩んしまったということになりやすくなります。
防衛機制の「同一視」としてマッチョイズムが使われることも
心理学の防衛機制で「同一視」という言葉があります。
同一視とは、自分の心や精神を守るために、他人が持っている優れた能力や実績を、あたかも自分のものであるかのよう振舞う、感じること言います。
マッチョイズムの場合の優れた能力や実績は、筋肉そのものや前向きさや行動力、時に攻撃的な男性的な考え方を取り入れます。
そうすることで、不安やストレスから自分を守る、自分があたかも筋肉モリモリなマッチョマンになったと考えることで、満足感を得ようとしたり、他人から自分を守り恐怖感から逃げようとします。
また、同一視は他人から他人に移りやすい防衛機制であり、周囲にマッチョイズムを押し付けて嫌われてしまう、変な人と思われてしまい不安を増長させてしまうこともあります。
とくに、マッチョイズムは他人への攻撃性を肯定してやすい考え方であるだけに、気が付けば周囲に煙たがられ、性格も排他的になっていたということにならないように気をつけることが大切です。
人間はストレスに無限に耐えられるわけではない
ストレスや不安に強くなるために筋トレに打ち込むのはいいのですが、人間はストレスに無限に耐えられるほど頑丈には出来ていません。
当然耐え切れないほどのストレスを背負い込まないように、上手く回避してコントロールするテクニックは、ストレスで心を病むのを防いだり、燃え尽き症候群にならないためにも必要になります。
マッチョイズムが強くなると、自分が許容できる以上のストレスを抱え込もうとする(つまり無理をする)ことにつながったり、他人に無理をさせようとする原因になります。
ストレスに強くなるために体を鍛えるばかりではなく、上手くストレス回避する、分散するという視点も取り入れることで、結果としてストレスに強い行動を身に付けることができます。
例えばなんでもかんでも一人でこなそうとせずに、周囲に協力してもらうようにお願いをする。ストレスや悩みを相談できる人を見つけるなどが効果的です。
ただ孤独に淡々と筋肉を鍛えているばかりでは、いざ困ったときに頼れる人間関係を手に入れる事が出来ないので、マッチョイズムは案外自分ひとりでなんとかしないといけない恐怖感にいつも脅かされているという、精神的な弱さやコンプレックスを含んでいる考え方と見ることもできます。
それゆえに「精神的な強さ=筋肉」という短絡的で、自分一人で解決できる楽な方法と感じて、のめり込んでしまう人が出ていると考えることもできます。