2018年はレスリングの伊調馨選手のパワハラ告発。日本大学のアメフト部の悪質タックル騒動および、チアリーディング部のパワハラ問題など、スポーツの世界におけるハラスメント(嫌がらせ行為)が話題です。
そもそもパワハラという言葉が使われるのは「職場」が一般的であり、学校における部活動で使われるような言葉ではないという認識があるように感じます。それゆえに「部活でパワハラ…ってどういうこと?」と、ピンとこない人も多いと思います。
ですが、学校によってはスポーツ進学に関わる権力やレギュラーとして選ぶ権限を指導者側が握っている。そのことで、部員に対して明確な立場・地位・権力を背景に部員に精神的および肉体的な苦痛を与えることが可能という点では、部活動でもパワハラという言葉を使うのがふさわしいという見方もできます。
もちろん、部活におけるパワハラは文化部でも同様です。今回は、まだまだ認知されていない部活動でのパワハラが起きる背景についてお話しいたします。
目次
明確な上下関係があり暴力行為に訴えやすい
運動部・文化部ともに、部活では
- 指導者(顧問・コーチ・監督)が立場が上
- 部員(生徒)が立場が下
というはっきりとした上下関係があることが大半です。
単純に年齢差だけでなく、部内・学内における影響力や発言権の差、運動歴やスポーツに必要な技術の差などで、大抵の場合は「部員<指導者」という立場関係ができてしまいます。
もちろん、この上下関係があるからといって必ず暴力や暴言などのパワハラに出るわけではありません。
しかし、上下関係を悪用し、例えば「スポーツ進学を希望しているのなら、指導者である私に逆らうな」と脅して一方的な暴力や暴言を振るいつつも隠蔽することは容易です。
また、この上下関係は「部員=指導者」間だけでなく「部員同士」の関係でも容易に作られます。
指導者ほど明確な権力や権限はありませんが、部員間に部内における発言権や影響力の差によりパワハラを可能にしてしまうことも考えられます。
生徒がパワハラに関する知識を理解しにくい
一般的にパワハラは職場の人間関係で起きるもの考えられていることが影響し、部活動という学校生活の一部であり且つ部員(生徒)と指導者の間で起きるという認識は広まっていません。
もちろん、現代ならネットで検索すればパワハラに関する情報は見つかるには見つかりますが、学力や社会経験の乏しさからパワハラがどういうものかを理解することが難しかったり、どう対処すればいいのか対策が立てられないということも考えられます。
当然ながら学校(部活動)において、パワハラなどのハラスメントについてじっくり教えてもらう機会はまずありません。
よくて高校時代にバイトを始めた時にパワハラとセクハラを、大学生になってアカハラ(アカデミックハラスメント)について初めて理解するという人が多いものです。
また、そもそも部活漬けの生活だと高校・大学時代にバイトでパワハラを知る…となることは考え難く、どうしても社会人になるまでパワハラが具体的にどういうものなのかを理解できない傾向があります。
そして、理解したとして過去に部活で受けていたパワハラを指摘するのは不可能であり、仕方なく泣き寝入りになることが、部活でのパワハラを蔓延らせる原因の一つと考えられます。
パワハラが教育指導や躾、愛のムチとして正当化されてしまう文化がある
暴力、暴言、権力をちらつかせる、無視、プライベートの介入と管理などのパワハラに当たる行為は社会人同士であれば指摘が入りやすいですが、部活動においては「教育指導や躾の一貫」と言う大義名分を得ることで正当化されてしまう事があります。
とくに厳しい指導やストイックな生活により、全国で華々しい成果を上げている部活であれば、厳しい指導は全国で結果を出すために必要不可欠であるという考えも受け入れられやすい傾向があります。
加えて、部活動はあくまでも学校生活の一部、すなわち教育の一部であるという認識から、体罰が教育指導や躾の一種と認識されてしまうのと同様に、パワハラも教育指導や躾の一種と認識されてしまうのです。
また、パワハラを受け取る部員の方も「これは理不尽な指導ではなく、愛情の表れである」と解釈を変えて、受け入れ難い現実を受け入れてしまうことがよくあるものです。
「どうして怒られているのか分からないし、怒鳴ったり暴力をふるって怖くて仕方ないけど、とりあえずこれらの行動は愛情の裏返しである」と考えれば、ただの暴力や暴言に対して怯えたり、腹を立てたり、思い悩むことが減る。その分、練習に集中しやすいと感じる心理が「厳しい指導は愛のムチ」という言葉には込められているのです。
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指導者がレギュラーや進路を決定する権力を持っている
部活の試合に出れるかは、部員の努力はもちろんですが最終的には出れるかどうかは指導者に委ねられます。
どれだけ実力のある部員でも、指導者に気に入られていなければ試合に出してもらえないどころか、普段の練習すら参加させてもらえない…という自体が起きても不思議ではありません。
また、進学目的で部活動をしている部員からすれば、指導者は自分の将来を左右する力を持っている絶対的な存在であり、気に入られないような事態を招くのは自分の将来を捨てるのと同じです。
もしも指導者に嫌われたせいで、活躍の機会を失う、正当な評価がされない、練習の場所すら与えられないという事態になっては進学どころの問題ではありません。
そのため、進学のために部活に入っている部員は、多少のパワハラがあっても訴えず、我慢して進学に備えることが最優先となるのです。
指導者もそのような事情を理解していればこそ、立場と権力に物を言わせてパワハラを行う&隠蔽するのは容易であるといえます。
部活以外の学生生活でもパワハラが教育指導として行われることがある
指導者が教員の場合、パワハラの範囲が部活動の時間に限らず、普段の授業や学校生活の中にも及ぶことがあります。
この時は部活における教育指導ではなく、学校生活における教育指導としてパワハラが行われて正当化されてしまいます。
もちろん、部活での不注意を学校生活に持ち込まれてパワハラの材料にされることもあれば、学校生活での不注意を学校生活での指導として、部活とは別物としてパワハラが行われることもあります。
それこそ、部活での進学を希望している部員からすれば「学校生活で受けた指導が内申書や調査書に書かれたり、志望校の関係者になんらかの形で伝えられて減点されてしまうかもしれない」という、漠然とした不安があります。
また、もしもパワハラに対して訴え出ようものなら「教師に対して歯向かった問題児」という烙印が付いて進学の道が閉ざされる不安もあり、パワハラそのものを受け入れることを選んでしまうのです。
指導者がいつもパワハラを振るっているわけではない
「一般的にパワハラというといつも暴力や暴言を振るって、誰かを困らせている」と思われがちですが、実はパワハラ行為そのものにも状況によって波があったり、たまには優しい一面を見せることがあるのはあまり知られていません。
このことが「これは、パワハラではなくやっぱり愛のムチだ」と感じてしまう原因のひとつといえます。
パワハラとは異なりますがDV(ドメスティックバイオレンス)には
- 緊張機(蓄積期) : ストレスや不満などを溜め込む期間。
- 爆発期 : 溜め込んだ感情を爆発させ暴力や暴言に出る期間。
- 開放期(ハネムーン期) : 暴力や暴言に対して後悔して優しくなる時期
という3つのサイクルを繰り返すことが特徴として挙げられます。
部活におけるパワハラも、DVのサイクル同様に怖い時もあれば優しさを見せる時もあるために「厳しくするのは愛情の裏返し」と感じたり「決して部員が嫌いだから厳しくしているのではない」と感じてしまうのです。
もちろん、愛情があろうがなかろうが、暴力や暴言を振るっている事実には変わりはありません。
しかし、その事実に対する解釈が「パワハラ」一辺倒ではなく「愛情」「教育指導の一貫」と部員自身が正当化してしまうために、部活におけるパワハラを訴える声は出づらいのです。
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参考:部活でのパワハラとストックホルム症候群
こうして書く中で「パワハラを振るう指導者とそれを庇う部員」という構図が、問題をより複雑にしているように感じます。
このような加害者を擁護する心理は、ストックホルム症候群にも通ずるものがあります。
「ストックホルム症候群」
誘拐事件や監禁事件などの犯罪被害者が、生存戦略として犯人との間に心理的なつながりを築くようになることをいう。 (wikipediaより)
- 試合に出たい
- 部活で進学をしたい
- 部活という居場所を手放したくない
- 応援してくれている人を裏切って失望させたくない
という心理が部員(被害者)にあるからこそ、パワハラを振るう指導者(加害者)を拒絶できず受け入れてしまう。
その過程で、指導者の行動に愛情や思いやり、教師としての熱意などの温もりを見出してしまい、パワハラを肯定的に受け入れてしまうのだとも考えることができます。
そして、パワハラを肯定的に見ているからこそ、自分がパワハラを振るう事にも疑問やためらいを抱きにくかったり、誰かがパワハラを受けている光景を見ても「それはパワハラではなく愛のムチだ」と強く主張してしまうことが、部活におけるパワハラが抱えている根深い問題なのかもしれません。
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