他人が妬ましい、羨ましい…と思う嫉妬の感情は、一般的に醜い感情であり慎むべきものとして扱われることでしょう。
と言っても、生きている以上は学校、職場などで他者と比較して、自分よりも優れている人に対して嫉妬することが誰でもあるものです。
ですが、中には他人に対して嫉妬心が非常に希薄で飄々としている。競争や出世、他人との比較に無頓着で、良くも悪くも他人に興味がない人は、まさにリアル・ネットかかわらずあらゆることに嫉妬をしてしまう今の世の中では、多くの人から(皮肉にも)嫉妬の対象になるかもしれません。
今回は、そんな(ひょっとしたら嫉妬をしないことで、周囲から嫉妬や羨望を集めてしまうかもしれない)嫉妬をしない人の心理についてお話しいたします。
どうして他人に嫉妬・羨望しないのか
世間の評価、権力などに対して興味が無い
冒頭でも述べたように、嫉妬をしない人は競争をする場面や他人と比較される場面に対する興味が薄いことが影響していると考えられます。
肩書き(学歴、仕事における役職など)、世間からの評判、権力、名声、経済的な地位、フォロワーやいいねの数、…など、多くの人が憧れの対象となるが誰でも望めば手に入れらるわけではないものに対して興味が薄い。
そして、興味が薄いがゆえに憧れの対象となるものを持っている人に対して、自分もほしいと感じたり、既に持っている人の足を引っ張り引きずり下ろしたいという気持ちが沸かないのです。
他人から自分がどう見られているかの、どういった魅力があるとか、立場があるとか、人に誇れるものがあるとか…と言った、社会生活を送る上で材料視されるステータスの類に対して興味が無いので、当然が他人が持っているステータスについて、いちいち嫉妬しなくなるのです。
こうした態度は、まるで人間が持っているあらゆる欲、そしてそこからくる苦悩から開放されて悟りを開いたかのような態度にも見え、見る人によってはこの態度そのものが嫉妬の対象になるかもしれません。
「他人は他人、自分は自分」と割り切っている
他人を妬みもせず、羨ましいと思ってヤキモキしない裏には「他人は他人、自分は自分」と、割り切って物事を見ていることが影響していると考えられます。
他人がいくら優秀だろうと、自分には無い魅力的な容姿や能力を持っていようとも、「他人は他人、自分は自分」と割り切れば、不快な思いをせずに済みます。
また、「他人は他人、自分は自分」と割り切ることは、他人を羨むせいで見落としがちな、自分の魅力や個性としっかり向き合う時間を確保することにもつながります。
他人に対して頻繁に嫉妬や羨望を繰り返して目が肥えてしまい、いつしか自分が持っていたはずの個性や魅力ですらも、肥えた目を通してみれば大したことがない物のように見えてしまい「自分には何も魅力が無い、誇れるものがない」と自己嫌悪に苦しまないためには、適度に割り切る姿勢を持つことが大事なのです。
適度な自己肯定感がある
自己肯定感がなさすぎて卑屈になり、目に入る他人が全て自分に持っていない能力や人脈がある人のように感じて妬ましく思ってしまう。かと言って、自己肯定感が高すぎて他人が少しでも自分より優れている所があると分かると不機嫌になってしまう…。
自己肯定感が低すぎ、高すぎずの適度な状態であることは、他人に対して嫉妬や羨望をしない一因と考えられます。
なお、一般的に嫉妬をしない人は、他人が妬ましく思うほど自分に対して自信や自己肯定感が高い人だと思われがちです。
しかし、上でも触れたように過度な自己肯定感はナルシストのように過剰な賞賛や評価を求めるものの、その通りにならないと不機嫌になったり、周囲から受け入れられている人に対して強い嫉妬や憎悪の気持ちを抱くことがあります。
ナルシストにすら見える自己肯定感の高さは、裏を返せば等身大の自分を受け入れられず、肥大化した理想の自分にこだわり続けている。つまり、現実の自分と折り合うことを避けているともいえます。
適度な自己肯定感を持つことは、自分の短所も長所もしっかり受け入れて、他人に対して不必要な嫉妬や羨望の念を抱かないためにも大事なことだと言えます。
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嫉妬や羨望をして不快になるぐらいなら、自分の腕を磨いた方がいいと悟っている
他人に対して嫉妬や羨望の念を抱いているときは、言葉にしにくい葛藤を覚えて非常に不愉快な気分になるものです。
しかし、嫉妬や羨望の炎をメラメラと燃やしたからと言って、実際に自分が羨ましく妬ましいと思っているものが手に入る…というものではありませんし、むしろ、不快な気持ちのせいで自己嫌悪や他人に対する憎悪を招くこともあり、あまり前向きな結果が待ち受けているわけではありません。
そうしたことで時間と労力を無駄にするぐらいなら、嫉妬や羨望の気持ちを一旦脇に置き、勉強や仕事などで今の自分ができることに専念したほうが効率的であり、建設的であり、現実的であるという考えに至れば、嫉妬や羨望をする時間すら惜しいと感じるのです。
自分よりも勉強ができる人を前に、嫉妬でムカムカしてからといって成績が上がるわけではありませんし、ムカムカする時間を勉強に充てたほうが効果的です。
…といえは、理屈ではそんなこと分かっていても、なかなか感情を切り離してすぐに勉強なり仕事なりに取り掛かることは容易ではありません。
(ただし、嫉妬や羨望を抱いてしまうことは「わかっちゃいるけどやめられない人間らしさ」という一種の魅力のようにも感じます。)
自分に対する理想や期待、欲があまりない
勉強・仕事・スポーツなど、競争が避けられない分野で高い目標に向けて努力をしている人からすれば、自分の存在を脅かすようなライバルの存在は脅威であると同時に強い嫉妬の対象となりがちです。
先輩ならまだしも、同期や後輩の急激な成長を間近に感じると、まるで自分の目標が阻まれるような気がして、つい足を引っ張ってでもいいから邪魔をしてやりたいという邪な気持ちに駆られることもあるでしょう。
しかし、高い目標とか競争とか以前に、自分がなりたいと思う自分の理想像がやたら低かったり、自分に対する期待や欲が乏しいと、強い嫉妬の気持ちも出てきにくいですし、ましてや他人の足を引っ張って邪魔をするだけの理由もありません。
高い理想や目標を目指さない姿勢は、競争が激しい世界ではあまり受け入れられるものではありませんし、やる気・覇気・根性のなさを示すものとして否定的に受け取られることもあるでしょう。
しかし、競争ばかりでいつも他人からの評価や視線が気になっている人からすれば、低い目標でも満足して充実感を味わえる精神的なゆとりが、自分にはないもののように感じて嫉妬や羨望を招くように感じます。
嫉妬や羨望が薄い人は自分に向けられる嫉妬にも関心が薄いという皮肉
冒頭などでも度々触れていますが「他人に対する嫉妬も羨望が薄い」ということが、一種の人柄の良さと見られて、他人から嫉妬や羨望を浴びることがある…というのが、なんとも皮肉です。
自分はとくに気にせず普段通りの生活を送っていても、その気にしない態度に嫉妬されて、いわれのない悪い噂を流されたり「理由はよくわからないけど、なんか嫌な人」と見られて疎まれてしまう。
勝手に期待して勝手に失望する人のように、本人が嫉妬に無頓着であるために、他人が勝手に嫉妬をして、その嫉妬から嫌がらせを受けてしまう。
でも、嫌がらせを受けている本人はというと、自分は嫉妬されるような地位・魅力を持っているとは思ってないし、いきなり嫌がらせを受けており状況が飲み込めなくて、戸惑いを隠せずにいる。
この状況を詳しく見ていくと、嫌がらせを受けている当人は他人が自分をどう見ているのかについて、そもそも興味が薄いために、自分に向けられる嫉妬や羨望の視線も興味が薄い。
今まさに嫉妬の炎をメラメラと燃やしている人からすれば、そんな光景を見せつけられれば非常に腹立たしいですい、うまく自分をコントロールできなければ更に嫉妬の炎を大きくして、より激しい嫌がらせに出るかもしれません。
でも、嫌がらせを受けている本人からすれば、その嫌がらせが、まさか自分に対する嫉妬が原因とは想像できず、理不尽な状況に非常に強い苦痛を覚えているのです。(もちろん、意図せず他人を嫉妬させたからといって、嫌がらせの存在そのものを肯定する理由にはなりませんが…)
このように、嫉妬心が薄いことですらも嫉妬する材料になることは、嫉妬や羨望をしない人が処世術の一つとして知っておくべき知識のようにも感じます。
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