誰かから認められたい、尊敬されたい、褒められたいと言うような要求を承認欲求と呼びます。
承認欲求は人間であれば誰もが持っている欲求です。その強さは人によって異なりますが、中には強すぎる承認欲求をこじらせて周囲に迷惑をかけてしまう人もいます。
実際に承認欲求をこじらせている人の行動を見ていると、「自分は尊敬されるはずだ」と言う思い込みが実際にはただの思い込みに過ぎないと言うことを自覚できないせいで、周囲の人との意見が噛み合わず、トラブルも自分から引き起こしているように見えることがあります。
もちろん、トラブルを起こしたら同じような過ちを繰り返さないためにも、自分の考え方に問題がなかったかを反省することが大事ではあります。
しかし、「自分は周囲から認められるほど偉大な人間である」と考えているために、その考えを揺るがすような反省という行為からは徹底的に逃げます。
そして、今までの人間関係をリセットしたり、SNSなどのネット上の人間関係で新たな居場所を探し求めることで、こじらせた承認欲求がよりこじれてしまいます。
しかし、ネット上の人間関係といっても、画面の向こうにいるのは自分たちと同じ生身の人間であるので、自分勝手な行動に出たり同情を遊ぶためにかまってちゃんのような行動に出れば、相手の気分を不機嫌にさせてしまい、次第に認められなくなるのも、当然の帰結と言えるでしょう。
…今回は、そんな承認欲求をこじらせている人の心理や背景についてお話しいたします。
承認欲求をこじらせた人にありがちなこと
自己アピール・自慢話が過剰になる
周囲から認められるためには自分はどのような人であるかを積極的にアピールしていく必要があります。
しかし、承認欲求をこじらせている人の場合、アピールをする回数や頻度が多く、つい他人の話を遮ってまで唐突な自分語りや自慢話をして、話の雰囲気を自分の色に染めたがることが目立ちます。
もちろん、その話が面白ければそこまでめんどくささを感じないのですが、周囲から尊敬されたい認められたいと言う我が強くために、脚色して話したり、高圧的な態度で話すので煙たがられます。
また「自分以外の人間が話すことを許さない」と言うような重い空気を作ってしまうこともあり、聞いている方に心理的なプレッシャーをかけてしまいます。
当然ながら、そのような雰囲気では周囲から認められるのも難しいものですし、仮に認めたとしても社交辞令のような表面的なものになるので、精神的に満たされたない気持ちで辛くなるのです。
認めて欲しいと言う割には周囲の人を認めようとしない
承認欲求をこじらした人は、自分のことを認めて欲しいとアピールする一方で、自分以外の他人のことを承認しようとしません。非常に自己中心的な考えが目立ちます。
こじらせた人は、常に自分のことを認めてくれる人を欲しているものの、その人の事はあくまでも自分のことを見出してくれるだけの都合の良い存在に過ぎない、と言うようなその人の個人の人格や考えを無視しているかのような節があります。
そのため、まともに付き合うとまるで太鼓持ちをやっているかのような虚無感に襲われてしまいます。
プライドの高すぎる人が「他人を褒めること=自分が劣っている、未熟である」と感じて、全然人を褒めたり認めようとしないのと非常に似ています。
認めてくれる人に露骨なえこ贔屓をする
承認欲求に飢えているので、自分のことを認めてくれる人に対しては露骨なえこ贔屓をして、優しく可愛がります。
しかしこの可愛がりは、素直な感謝や友情、愛情と言うようなものとは異なり、自分の満たされない気持ちを満たしてくれる都合の良い人を手放したくない、と言うようなあくまでも自分にとって利益のあるから可愛がっているのです。
気を引くために同情を誘う行動にでる
また、可愛がるうちに要求をエスカレートさせて「もっと自分を承認しろ」と言うような高圧的な態度に出たり、あえて突き放すような行動して「これでも自分のことを受け入れてくれる?」と他人を試す行動に出ることもあります。
言い換えれば、承認欲求をこじらせている人は自分のことを認めてくれる人に精神的に依存していると同時に、認めてくれる人が本心から認めているのかを疑っているので、その疑いを晴らすために、試すような行動をとって相手の腹の底を探ろうとするのです。
他人を下げて自分を持ち上げる言動が目立つ
承認欲求こじらせる人は「自分は尊敬されるほど素晴らしい人間である」と言うような漠然とした万能感を抱いてはいるものの、実際に勉強・仕事・スポーツ・趣味の世界で認められるような成果を出している人はあまりないものです。
また、地道に努力して周囲から相応に認められる人になろうとすることそのものを「自分自身は万能でも何でもなく平凡で未熟な人間でしかない」と感じてしまため、地道な努力を放棄してなるべく手軽に自分をよく見せようとする方法ばかりに力を入れてしまいます。
その方法こそ「他人を下げて自分を持ち上げる」と言う言動を繰り返すことです。
例えば、大学進学のために上京してきた、ことを例にしても
- 田舎の高校からわざわざ大学進学のために上京してきた
- 同期を捨てて大学進学のために上京してきた
などの余計な一言が多く、つい人をイライラさせてしまうことが目立ちます。
普通に「大学に進学のために上京してきた」してきたと言えば良いのですが、それだとインパクトに欠け周囲から注目されない懸念があります。
だからあえて(余計な)一言をプラスして、他人を下げて自分を持ち上げるように脚色し、より自分に注目が浴びるようにするのです。
承認されるために周囲に媚びへつらう
こじらせた承認欲求を満たすといっても、認められたい人とあまり認められてもそこまで嬉しくない人とがいます。
例えば会社員の場合、同期に認められるよりも、先輩、上司、役員、取引先など、自分よりも立場が上の人から褒めらたほうが、より自分の承認欲求を満たし満足感を得ることができます。
しかし、上から認められたい思いが強すぎて同期には冷たい対応になります。また、上の立場の人に対しては媚びへつらうと言う見え透いた営業活動が目立つので、動機は更に嫌な気持ちになり、こじらせた人から距離を置こうとします。
なお、上の立場の人から媚びへつらうためには、自分と同じ立場の人や自分以下の立場の人に対して「さほど自分の人生には重要ではない人物である」と言うような上から目線で接することもあるので、まともに付き合うのが面倒になるのです。
子供のような根拠のない万能感に囚わていれる
承認欲求をこじらせている人は、まるで子どものような「自分には優れた能力があるので、周囲の人から認められるに違いない」と言うような曖昧として根拠のない万能感にとらわれていることがあります。
このことは心理学では「幼児的万能感」と呼ばれており、子供時代に誰もが持っている万能感です。
しかし、幼児的万能感は自我を確立しだす思春期に失われ、代わりに年齢相応の自信を身につけたり、ほどほどの万能感を身に付けていくき、社会や周囲の人々とうまく折り合いをつけていくようになるのです。
しかし、こじらせている人はこの万能感が抜けきっておらず「自分は素晴らしいんだから、みんなからちやほやされて認められるべきなんだ!」と押し付けがましい態度をとり、周りの人を困惑させてしまうのです。
批判や異論にめっぽう弱く排他的になる
幼児的万能感は、しばしば「自分は他人の行動や思考もコントロールできる」と言うような、考えを招きます。
無根拠に万能だと感じているがゆえに、自分だけでなく他人も自分の思いのままにコントロールできるに違いないと感じてしまうのです。
ですがその考えはやはり錯覚にすぎず、ほとんどの場合は否定されてしまいます。
しかし、考えが否定されると今までの自分らしさを構成していた幼児的な万能感も否定されると感じて強く反発したり、逆に相手のことを徹底的に否定して、自分の方が有能であると示そうとします。
よく、SNS上で賛同以外の意見を持つ人を片っ端からブロックする人や、すぐにアンチ認定してしまう人のように、自分のことを認めない人は言い換えれば自分らしさを揺るがす脅威だと感じているので、批判や異論にめっぽう弱くなります。
その結果、ただ自分の承認欲求を満たすためだけの偏った思想を持つ馴れ合いの人間関係にのめりこむことがあります。
承認欲求をこじらせる背景にあるもの
ここまで承認欲求をこじらせてしまう裏にあるのは、過去に自分が受け入れられなかった、認められなかったと言う経験が影響している考えることができます。
その相手は、家族、友達、先生、部活の指導者コーチなど様々ありますが、共通しているのは「他人から自分のことを受け入れてもら得なかった、愛されてもら得なかった」と言う経験です。
他人から受け入れてもらえないのは確かに辛いものではあります、その反動で他人の承認を過剰に求めて、今まで不足していた「認められる経験」を一気に満たそうとする事は、上でも触れたように、周囲との衝突を招くことがあります。
また、周囲が自分の要求に応えられず疲弊させてしまったり、自分の要求通りにならないことで失望してしまうと言う結果を招きます。
今まで認められなかったと言う経験が強いからこそ、いち早く満足感を得たいと言う焦りがあるのだと思いますが、焦りに身を任せて感情的になるとお互いにつらくなるものです。
自分も周囲も辛くならないためには、自分を抑えて適度に承認欲求を満たしたり、相手のことを認めてお互い承認欲求を適度に満たしあえるギブ&テイクの関係を築いていくことが大事です。
関連記事