「あの人は母(あるいは父)にはひどいことをしてたかもしれないけど、私には優しかった」
だから親がモラハラの加害者だなんて信じられない、と。ですが、それはモラハラではよくある出来事の一つです。
多くの人にとってはあまり認めたくないことかもしれませんが、モラハラ(モラルハラスメント)は親から子供という関係でも起きておかしくないことであります。
もちろん、モラハラという言葉ではなく場合によっては虐待、ネグレクトと表現されることもありますが、親から子に対する言葉や態度での暴力をふるっているという点では、モラハラも一種の虐待(精神的虐待)である言えます。
今回はそんな親から子へのモラハラについてお話いたします。
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目次
外面のいい親が行うモラハラの心理
モラハラを行う人間の大きな特徴のひとつに「信じられないほどの二面性・特に外面の良さ」というものがあります。
葛藤の処理が未熟であるモラハラをする人間は、葛藤を回避するために、自らの理想とする世界を現実に映し、そしてコレを守るために、その二面性を全力で活用します。
モラハラをする親が子どもに優しくなるのは、子どもへの愛情ゆえではなく、自身の都合のいい世界を守るため。
もっと言えば子どもを、モラハラ加害者が作り上げる「自分の世界」の住人として迎え入れるためです。
(ここでいう自分の世界とは言い換えれば、モラハラ加害者が持っている都合のいい思い込み、自分の理想的な家族像と自分像などの、理想と現実で言うところの理想に当たるものです。)
そうする事で「自分の世界」をより強固にして安心を得ようとする「装置」として子どもを利用しているのです。
そこにあるのは「人を育てるため」の「親の愛情」ではなく、ただ「便利な道具」に対する「甘い愛着」に過ぎないのです。
親から見て子供は、まさに自分世間体をよくするための引き立て役であると同時に、自分にとって都合のいいサンドバックのような存在なのです。
モラハラ親の愛情は「条件付きの愛」
モラハラ加害者は思い通りにならない人間関係やうまく現実と折り合えないことの葛藤から逃れるために自分の世界を作り上げます。
自分の世界を作り上げたモラハラ加害者が愛するのは、その世界を守り肯定してくれる都合のいい存在です。
一方でどんな動機からであれ、その世界を少しでも否定したり異議を唱える人に対してはそれを敵と見なして
- 怒る
- 拗ねる
- 不貞腐れる
- ダダをこねる
- 経済的な援助を断つと言う
などの攻撃的な態度をとり、自分の世界に従わせようとします。…それは子どもに対しても同様です。
モラハラをする親は子どもに対して表向きは理解者の顔をします。
- 子どもが何かを欲しがれば、すぐにオモチャがゲームやおやつなどモノを与え。
- 子どもが何かを嫌がれば、すぐに「必要はない、相応しくない」と排除して。
- 子どもが何かを嬉しがれば、何度も性懲りもなくしつこく繰り返す。
問題は、そこに子どもの将来や成長に対しての考えは何もない、という事です。
モラハラをする親は自分の価値観を無条件に受け入れ、それを補強してくれる味方を欲しています。
だからこそモラハラをする親は子どもに甘い、甘い、甘い、甘い、甘すぎるアメを与えます。そして見返りを欲しています。
自分が作り上げ、そして見ている世界を、無条件に肯定してくれるという見返り。
自分の世界を共に守り、自分を王様とする、その世界にカルト宗教の如く考えることなく服従してくれる、という奴隷になれと言うに等しい見返りを求めます。
モラハラをする親が子どもに与える愛とは、そういう条件が付いて成り立つ愛なのです。
子供を利用して「いい親」だとアピールする
モラハラをする親は自分の世界を守るため、子どもに見返りを求めた条件付きの愛情を与えます。子どもに自分の世界を肯定してもらい、時に服従するように威圧します。
その肯定と服従をモラハラをする親は「利用」します。その歪んだ有様を「子どもに慕われてる。こんな自分は良い親」と解釈して周囲にことさらに広めます。
それもまたモラハラをする親が作り上げる「世界」のひとつであり、子供は親という人間をよく見せるためのアクセサリーのような存在と化しているのです。
モラハラをする親は、そうやって自分で作り上げた幻想の中に、またひとつ逃げ込み、自らを守る鎧とします。
「こんなに子どもに慕われている自分が、悪い親であるはずがない」
この鎧を強化するためにモラハラをする親は周囲に自らを「いい親」だとアピールします。そしてモラハラを受ける側の親に、自らの「いい親」ぶりを披露して武器にします。
「他人からも『子どもに慕われていい親だ』と言ってくれる。そんな評価を貰っている私に別の考え方を持ち出して逆らうなんて、お前はなんと『悪い親』なんだろう」そうやってモラハラをする親は「いい親であること」を「武器」にします。
しかし、その「慕われ」の正体は子どもの正しかるべき成長を犠牲にして人格を歪めたがゆえに生じさせた単なる「服従」にほかなりません。
子供に見せる優しさの裏にある無関心
さきほど上述したように、モラハラをする親の愛情は、自らの世界を守る事を見返りにした甘い愛情です。そこには、子どもを一人の人間として真剣に思い考え成長に必要なモノを与えようとする本当の意味での親の愛情には歪みがあります。
前述したように、モラハラをする親にとって、子どもは自分をよく見せるための、そして自分の世界を守るための道具の一つです。
モラハラをする親は子どもにそれ以上のことを望まないし、むしろそれゆえに、それ以上のことをされたら困るとさえ考えることもあるでしょう。
その意味ではモラハラをする親は、子どもに対する関心、特に成長に対する関心には無頓着。言い換えれば子どもがどんな大人になり、どのような行動をしていくのか、それに対する責任や義務に対しては、まったく興味がありません。
むしろモラハラをする親にとってみれば、子どもとは、自分の世界にわずかな色を与える程度の箱庭の人形程度の存在と言えます。
箱庭の人形に自分の意志を持たれて勝手に動き回られては、せっかく自分が整備した箱庭が壊れてしまいます。それはモラハラをする親にとってみれば、まったくもって楽しいことではありません。そうなってしまえばもはやモラハラをする親にとっては、子どもは自分の世界を壊す「敵」であり攻撃の対象となります。
ゆえにモラハラをする親は子どもを甘やかせ、意志を奪い、成長を奪い、単なる人形に。あるいは自らのコピーへと刷り込んでいきます。
それは子どもにとっては優しい親、外からみたら子煩悩なママやパパと映り好意的に見られることでしょう。
しかし、甘やかした結果自分で考えることを放棄したり、親がいなければ自分のことすらロクにできない子供へと育ち、子供自身の将来の可能性を奪う行為とも言えます。
モラハラをする親の優しさの裏には、そんな、子どもの将来の可能性に対する無関心が秘められているのです。
根本的に子供よりも親である自分の方を優先する
とはいえ子どもの側も時を経るとともに成長・変化はしていきます。
やがて子どもはモラハラをする親が作り上げた世界以外の「別の世界」の事も、精神的な自立が始まる思春期の境に、友達、先輩・後輩、先生などの様々な人付き合いやテレビやSNSなどの情報を通して知っていく事になります。
その時、モラハラをする親の世界と、子どもが見てきた世界・子どもが別の世界を見てこれから作り上げようとする世界とは、必ず激突することになります。
「○○ちゃんの家と違って私の家はおかしい」というように、この時期の子供ならよくある言葉を口にするのです。
その場面でモラハラをする親は子供の自立を「自分を否定・侮辱された」と感じて怒ります。
そして子どもの自立心を頭ごなしに壊し、自我を否定し、心身の成長を否定し、それらによって生じたトラブルにおける責任をモラハラを受ける親の側へと責任転嫁します。しかし、そのトラブルはモラハラをする親が招いたトラブルです。
それでもモラハラをする親は、生じたトラブルを決して認めないのです。なぜなら自分の作り上げた世界では自分は完璧な「よい親」だから。
その「よい親」がいるのにトラブルが起こるのは、もうひとりの完璧ではない「悪い親」がいるから。そういう考えでモラハラをする親は自分自身を守ります。自分に都合のよい言葉や考えしか受け入れられないようになっているのです。
こうしてモラハラをする親は、子どもの成長や考えよりも、自分自身を守ってくれているその幻想こそを優先し、それを壊す子どもを憎み攻撃するようになっていくのです。当然、その時に「自分の世界」を正当化することを忘れません。「しつけ」「教育」そのような言葉で自らの行為に言い訳の鎧をまとわせて子どもを攻撃します。
モラハラをする親は子どもよりも自分の世界こそを優先するのです。自分勝手さ、我が身可愛さが際立ちます。
モラハラを受けた子供への影響
モラハラをする親の行動を見て子どもはその内容を葛藤の解決手段として学んでいきます。この手段は未熟であるがゆえに解りやすくマネもしやすいもの。
モラハラを受けた子どもはモラハラを「手段」として学び、時に実践に至る事があります。
その「実践」がうまくいってしまったら、その成功体験によって手段(モラハラ)は「有効」であると認識が強化され、面倒事や嫌なことがあった時の解決法のひとつとして子どもは学習していきます。
それは虐待が親子間で連鎖するように、悲劇が次の子に孫に受け継がれていくことにもつながります。
その一方でモラハラをする親に押さえつけられた子どもは、親の世界で「生きるために」必死に、親にとっての「良い子」でいようとする場合があります。
それは本来であれば子どもにとって必要な成長や体験、本当の愛情を奪われる事でもあります。
そうやって「良い子」であろうとする子どもは「家庭のバランスをとる者」になろうと考えることもあります。モラハラをする親からの攻撃に耐え、モラハラをされる親からの涙を拭うために耐えようとします。
本来だったら守られて奔放に生きられるはずの年齢を、逆に守ろうとして自分を押さえつけて生きるようになっていきます。
それらは確実に子どもの精神と人格を大きく歪ませ、時に自らを押さえつける枷となり、時に自らを制御不能な状態へと暴発させてしまうものとなり、他にもさまざまな形で、あるいはのちのちに大きな悲劇を生むに足るほどの負担となっていくのです。