ゆとり世代に代表されるように、平成生まれの20代や10代の若者の間では、批判されることを「絶対悪」「喧嘩を売る事」「あってはならない忌々しい事」ように、非常に悪い事として考えているケースがあります。
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若者は「批判する=ディスる」という意味で使っている
若者の間では「批判する=相手をけなす、ディスる」という意味で用いられ、中高年では「批判する=議論する、意見を述べ合う」という意味で用いられており、どちらも「批判する」という単語なのにその意味は全くちがうということがあります。
「批判する」に限らず、環境や立場が違うと、同じ言葉でも意味が違い、ジェネレーションギャップを感じる事はしばしばあります。
もちろん、若者でも批判に対してしっかりと聞く耳を持ち、自分の考えを述べる事が出来る人もいますし、中高年なのに自分への意見を全て誹謗中傷だと捉え、自分を肯定してくれる人のみと付き合っている人がいることも忘れてはいけませんね。
「批判」を悪と捉える若者が生まれた背景
日本の教育現場や家庭では、その場の雰囲気や空気を大切にして、和を乱すような意見や主張をするべきではないことが良い事として扱われています。
その場の空気を読み、場の空気に従って自分自信をコントロールしてコミュニケーションを取る。それができないと、周囲から空気の読めない奴、自分勝手な奴というマイナスイメージが付くだけでなく、最近認知されてきたアスペルガー症候群や発達障害というような烙印を押され、村八分にされることも。
こういうコミュニケーションの取り方を続けていれば、場の空気を乱すような意見は「悪」である。そして、そういう意見を言う人もまた「悪」である、という考え方に陥りがちです。
みんなと一緒が良い事。みんなと一緒の和を乱すような意見をぶつけ合うことは、異常事態でありとても悪いこと。和を乱すような人は迷惑な人、関わりたくない人、忌むべき人、避けるべき人、友達にしてはいけないである…と考え方がエスカレートした結果ですね。
当然、この考え方を自分にも当てはめ、必死に空気を読み意見を言わない、いわゆる「おとなしい」若者もめずらしくありません。
ただ、和を乱すような意見と言っても、相手の人格否定を否定するような誹謗中傷の場合もあれば、自分自身を戒めるような親切心からのアドバイスのようなものまで様々あります。しかし、批判を悪と捉える若者は、そのどちらの声も「自分への攻撃」である捉えて、意見を受け入れません。
とくに、インターネットのように、実際に会ったことも、対面でも無い、ただ文字だけのコミュニケーションの場では、誹謗中傷とアドバイスを見抜くのは難しくなります。
実際に会って話すことにより、「この人は自分を否定しているのではなく、しっかりと自分のことを思って親切にアドバイスをしてくれているのだ」と、会話の中でわかる場面も、ネットのような文字だけのシンプルすぎるコミュニケーションでは、受け止める側が深刻に捉えすぎてしまい、人格否定だと捉えてしまいがちです。
他人は味方か敵の2種類しかいないと考えがち。
今の若者達は物心着いた頃から携帯電話のメール、LINEのようなスマートフォンのSNSアプリなどを用いた人間関係を当たり前のように作っています。
とくにLINEグループのような、学校のクラスや部活、サークル、ゼミ単位の数人程度のグループまでもSNSによって可視化され、学校の外であろうと誰が誰とつながっているかを常に確認することができます。
人間関係が可視化されることにより、当然グループから削除されてしまう人も可視化されてしまいます。昔と比べて「村八分」になる光景も、リアルタイムで閲覧できる世の中になってきています。
このように、グループに入っている人とそうでない人とが明確に2分割されてしまうと、グループに入っている人は「味方」、グループに入っていない人は「敵」である、のような考え方に陥りやすくなってしまいます。「敵」とはいかなくとも、「自分と親しくない人=不審者、変質者、危ない人」のように、警戒して見る傾向もあります。
当然、この世の全ての人間が味方と敵の2種類しかいないわけではないのに、自分にとって都合がいいようにカテゴライズしてしまう事は、現実を歪んだ目で見ていることになります。
「批判する奴は嫉妬しているだけ」と正当化してしまう。
自分へ届いている声が誹謗中傷なのか、親切心からのアドバイスなのかを判断する能力が無い人に共通するのは、「批判する奴は俺に嫉妬しているだけだ」という考え方です。
実際に嫉妬しているから、重箱の隅を突っつくような些細なツッコミを入れらているのかもしれませんが、端から意見を聞かず批判をすべて「嫉妬」と決め付けるのは、現実を正しく受け止めていない事になります。
また、そういう場面で歴史に名を残すような経営者や偉人の言葉を借りて、「批判に耳を傾けてはいけない」「批判されるのは自分が正しい事をしているからだ」「批判している奴はみんなアンチ」と早合点し自己肯定してしまうのもよくありません。
その考え方はとても独善的で、自己肯定をしている割にはストレスに敏感で打たれ弱く、視野を狭めてしまう考え方に他なりません。何か行動するたびに、挫折を生んでしまいがちな考え方です。
自分が道を踏み外しているのにもかかわらず、それを諌める声ですら「批判」や「嫉妬」と受け止めてしまっては、現実に対して間違った認知をしている事になります。
そうならないためにも、常日頃から誹謗中傷と建設的なアドバイスとを見抜く力や、それらを受け入れる柔軟な思考を養っていきたいものです。
スポーツの場面であれば、自分の甘いプレーへの意見を自分自身の人格否定と考えていないか。仕事の場面であれば、自分の行動や主張への意見を、自分自身の人格否定を考えていないか。ちょっとした意見や声を、すぐに人格否定と結び付けないようにするのが大切です。
まとめ
・若者は「批判する=ディスる」という意味で使っている。年代によっては「批判する」の意味は異なってきている。
・若者は場の雰囲気や空気を読むことこそ大事で、空気を読まず自分の意見を言うことは悪であるという考え方をしている。
・批判は悪という考え方が身につくと、自分にとって有用や意見やアドバイスですら聞き入れなくなってしまう。他者の声を聞かず、間違った自己肯定感では打たれ弱くメンタルを乱す原因になってしまう。
もちろん、若者が皆が皆、「批判=悪」ときめつけるわけではありません。批判に対して過度に嫌悪感や忌避感を感じている人は、若者に限った事ではありません。こういう考え方は、議論やディベートが下手な日本人ならではの気質とでも言いましょうか。
聞き心地のいい言葉があふれる人間関係は、メンタルを乱すことがないので安心こそしますが、そればかりに慣れてしまって、自分へのアドバイスですらメンタルを害するものである、という考え方が身につかないようにしていくのが大切です。