恋人や友達に期待したけど、期待通りにいかなかった事はないでしょうか。
例えば自分の誕生日が数日後に迫っており、恋人や友達から、何か特別なサプライズイベントをしてもらったり、特別なプレゼントがもらえるという期待に胸をふくらませていたとします。
しかし、いざ誕生日の日になってもの「誕生日おめでとう!」と言ってもらっただけで、サプライズイベントも特別なプレゼントもないまま終わってしまい、なんだかがっかりした、期待はずれに感じた、というような経験をした人は多いと思います。
他人に何をしてもらえると事を心の中で考えている瞬間は、充実感や期待感のようなポジティブ思考な気持ちで胸がいっぱいになり、テンションも上がります。
しかし、期待通りに行かないとその分ショックも大きくなり、ストレスやテンションを下げる原因にもなってしまいます。
今回はこの「期待」という行動と「期待をしすぎてしまう人の悩み」に関する事をまとめました。
目次
「期待」は自分の中の思い込みにすぎない
期待という単語を辞書で引いて見ると、以下のように説明されています。
あることが実現するだろうと望みをかけて待ち受けること。当てにして心待ちにすること。
出典:デジタル大辞泉
過去の出来事に対して期待するという使い方はされず、これからのこと、つまり未来や将来のことに対して期待という言葉は使われます。
仮に、期待をする対象が人間の場合。例えば、仕事や教育の場面で相手に対して何か期待をする場面も、「期待をかけた人が将来何かをしてくれる、成し遂げてくれるだろう…」と変換する事ができます。
また、期待するという事は、「将来起こる事がこんなんだったらいいなぁ…」「未来はこんな風になったらいいなぁ…」と思う事とも言えます。
こうして見ると期待というのは、「物事(未来や将来の事)がこうあるべきだ!」と自分が思い込んでいることに過ぎず、単純に自分の中で勝手に描いているイメージや理想像に過ぎないという事がわかります。
「期待が膨み続ける=思い込みが強くなり続ける」
「誕生日にスペシャルサプライズがあってほしい…」
「自分の子供が進学校に行って優秀」
「婚活で希望通りの年収、キャリア、学歴、身長のパートナーがいてほしい…」
「自分の子供が進学校に行って優秀な大学、一流企業という世間から評価される人生レールを歩んで欲しい…」
「自分が持っている株や仮想通貨が暴騰して欲しい…」
というような期待も、どれも未来に対する自分の思い込み、理想像に過ぎません。
「(未来は)こうあるべき!」
「(未来は)こうなっていないといけない!」
「(相手は)○○をするべきだ!」
「(相手は)するのが当然だ!」
というような心理になっています。
まるで期待通りの未来になるのが当たり前、期待通りになるのが当然、というような認知の歪みで登場する「~べき」という考え方そのものです。
心理学では非合理的な思考パターンを指す「認知の歪み」という言葉があり、その中で「~すべき思考」というものがあります。認知の歪みという言葉通り、この考え方は現実を正しく見れていない考え方であり、ネガティブな気分や憂鬱になりやすい、不安を招きやすい考え方です。
もちろん、自分で自分の可能性や限界を決め付けてしまったり、他人の可能性を否定するのは良くないことですが、かと言って無制限に期待を膨らましてしまうと、期待通りにならなかった際の現実とのギャップに苦しめられることになります。
まるでバブルが初めて一気に暴落した株のチャートのように、膨らみ続けた期待感を持っているとそれだけハイテンションになり、まさに気持ちのいい夢を見ているような気分になれます。
しかし「期待が膨らみ続けること=自分の思い込み、勝手なイメージが強くなり続ける」ということでもあります。
人によっては現実とのギャップに気づいたショックに耐え切れず、不調を訴えたり精神的に参ってしまう事もあります。
また、現実とのギャップに内心は気づきつつも、夢から醒めて大きくなったギャップに苦しめられるぐらいなら、膨らみ続ける期待にとことん酔い続けてしまうというケースもあります。
見たくない現実からどんどん目を背けて、思い込みを強めてしまっては自分の視野を狭めてしまい、いつか耐え切れなくなるまで自分を追い込んでしまうことになります。
そのような状態が続くと、人間関係のトラブルを引き起こす原因になったり、仕事や勉強でやる気やモチベーションに悪影響がでてしまいます。(例:仕事をサボる、受験うつなど)
また、大きな金が絡む株式投資などでは多額の含み損や借金を抱えてしまうということにもなります。
「期待通り」の結果になっても実は嬉しさは感じにくい
自分が期待していた通りになる、つまり「期待通り」になる事は、何も期待していないときと比べると、実は嬉しさや喜びを感じにくくなります。
なぜなら、期待するというのはさきほど書いたように、「未来はこうあるべきだ」という当たり前に思っていることなので、当たり前の事にわざわざ大きな喜びや充足感を感じることはありません。
散々期待していた通りに物事がうまくいっても、「あ、なんだこんなものか」と思ってたものと違うと感じたり、なんか物足りないという感覚を覚えるのはそのためです。
期待していた通りになって、がっかりするシーンの一つに大学生活の例があります。
受験勉強で予備校や塾に通い詰めているときは、当然不安やストレスが増えるために、それを紛らわそうと大学生活後の姿を想像して勝手に期待をふくらませがちです。その分期待と現実の差も大きくかけ離れたものになりがちです。
「大学生になったら、毎日コンパやサークルで遊べてすごく充実したキャンパスライフが送れるに違いない!」、と受験生の頃は期待がもんもんと膨らんでいたのに、いざ大学生になってそれらを一通り経験しても「キャンパスライフってこんなもんだったんか…(落胆)」とか「なんか物足りない…」と感じるのはそのためです。
大学生の場合、そのまま五月病になったり、大学に来なくなる、中退してしまうという残念な結果になることもあります。
期待通りの未来になる、というのはたしかに安定感はありますが、実際は面白味やサプライズに乏しいという特徴があります。
逆にどうなるかわからない、不安定で先が見えない未来は不安や恐怖を感じますが、一方で変化やサプライズといった何が起こるかわからないからこそワクワクできる、テンションが上がるといった刺激もあります。(ギャンブルがうまく行った時に快感を覚えるのもこのため)
期待通りになって欲しいと強く願ってしまう人は、無意識のうちに未来への不安や恐怖を避けようと回避する心理が強くはたらいているともいえます。
「○○が当たり前」という気持ちで苦しまないために…
期待する心理に出る「当たり前」という気持ちは、何も未来のことだけに限らず、現在や過去にも当てはまります。
よくメンタルトレーニングや自己啓発本では、自分自身を成長させるために「当たり前の基準を引き上げる」というような事が書かれていますが、実は当たり前の基準が高まれば高まるほど、今まで普通に出来ていた事に対して充足感や喜びを感じにくくなるとも言えます。
日常生活の中で当たり前のように水道から水が出る、電車が時間通りに来る、当たり前のようにコンビニが24時間営業している…このような日本に住んでいたら当たり前の事に、いちいち胸を躍らしたり、感動を覚えることは滅多にないと思います。
小学生や幼稚園の頃は、目に入ってくるおもちゃ、景色、人やモノの何もかもが、新鮮で魅力的に見えたのに、社会人になると過去の経験から、それらはどれも当たり前のものになり、新鮮さも魅力も感じなくなってしまいます。
自分自身や周囲に対して当たり前のレベルが引き上がれば、その分自分や周囲を成長させ、仕事などで自分の目標を達成することができるかもしれません。
しかし、当たり前のレベルを引き上げすぎて、今までよりも喜びや感動、充実感、達成感を感じにくくなり、だんだんモチベーションが下がってしまっているときは、精神的な不安が大きくなっている、無理をしているという事も考えれられます。
そのまま意地になって頑張り続けても、「もうこれ以上は当たり前のレベルを引き上げれない…」という状態から、燃え尽き症候群になる事もあります。
もしも、今までよりも満足感や充実感を感じにくくなっている場合は、初心に帰る、すこし休憩して気分転換をしたりして、オーバーペースにならないようにこころがけましょう。