ひねくれている性格は人間関係を構築する場面しかり、自分で自分を客観的に見るときしかり、思考の偏りゆえに辛い目にあってしまうことは、ひねくれて悩んでいる人からすれば、わざわざ言われなくとも、よーくわかっていることだと思います。
今回は、そんなひねくれたことで感じるデメリットについて、筆者自身の経験も踏まえてお話し致します。
関連記事
ひねくれた性格・考え方で感じたデメリット
世間の考えに対して自分の考えを合わせることに苦痛を感じる
ひねくれた性格で苦労するのは、世間で今何が流行しているだとか、どういう人物が話題だとか、どんなことに世間が関心を持っているのか…ということに、素直についていくこと苦痛を感じてしまうことです。
例えば、ある人気のお笑い芸人が話題になったときに、そのお笑い芸人を純粋に応援なり好意を示したり、刺が立たないように肯定的な意見を述べて、自分が所属する人間関係にて波風を立てないように振舞うことに、苦痛を感じてしまうのです。
流行について調べたり、興味を持つこと自体はそこまで苦痛ではないものの、流行について思っていることや感じていることを、自分以外の他人や世間のものに寄せていこうとすることに苦痛を感じる。自分のひねくれ具合が災いして、自分に嘘をついているように感じて苦痛を感じる、他人に合わせるために自分の素直な感情を抑圧していることに、辛さを感じてしまうのです。
世間の一般的な意見や考えから取り残される、話が合わなくなる
ひねくれ過ぎると、世間の一般的な意見や考えから取り残されてしまい、次第に話が合う人がいなくなることがデメリットとして挙げられます。
自分に会話の主導権があるのならまだしも、相手が会話の主導権を持っているのに、それに対してひねくれた主張や態度をしようものなら、顰蹙を買って二度と会話に呼ばれなくなるのも無理はありません。
ひねくれているために、自分の意見や主張をどうしても口にしたくなる衝動に駆られるものですが、そのことが相手にとって負担やストレスを与えてしまうのであれば、自分を抑制することもまた、社会と折り合いをつけて生きていくためには欠かせないことだと感じます。
とくに話を合わせる技術は、友達関係や恋愛だけでなく、仕事をする上では欠かせないものです。仕事の人間関係でひねくれた態度を見せることは、自分個人の問題ではなく、そんな態度を許している組織に対する信用を揺るがしかねない側面もありために、尚更ひねくれていることを忌むべきものとして見ているように感じます。
世間からズレていることで不安を感じることが多い
いくらひねくれていることを自覚して抑制していても、根本的に自分が世間から…もっと言えば多数派からズレていることに対して、不安を感じていることも事実です。
ネット上では割と自由に意見を述べられるものの、所詮リアルの世界や世間から見れば自分は少数派であり、どうしても多数派視点に立って見ればズレた思考を持っていることには変わりはない。
そして持っている考えも、ポジティブシンキングだとかキラキラとしてものとは程遠く、否定的というかジメジメとして、ねちっこくて、意地の悪い考え方を持っていることに、負い目というか、申し訳のなさを感じて自分で自分が嫌になることがあります。
しかし、こうした意地の悪い醜い一面を持っていることを、ひねくれている自分らしさとして受けいれているために、醜い自分を否定し拒絶することには辛さを感じる。
もちろん、社会生活を円滑に営むうえでは、醜くひねくれた部分が出ないように抑えるのが大事と重々承知していますが、抑えることそのものも決して楽ではなく、疲れを感じているのも事実です。
ひねくれていることを開き直れず苦しむ
「ひねくれている自分でもいいではないか」という肯定的な気持ちもあれば「多少はひねくれている性格を修正して、世間の考えに合わせるべき」という、ひねくれていることを否定的に見る両方の気持ちを感じています。
迂闊にひねくれていることを自己正当化することは、自分の意見や主張に対して理解や興味を示してもらえなくなるだけでなく、他人から見て「あの人は人間性や人格に著しい難がある人」として見られてしまい、余計に自分を生きづらい環境へと追い込んでしまう怖さがあります
とくに仕事の人間関係では、自分だけ評価や信用が下がるばかりでなく、自分が所属している組織や同業者への評価・信用を毀損するおそれがあるからこそ、ひねくれていると開き直る姿を見せないことの大切さを感じます。
社会と折り合い、社会の一員として生きて行く上で、余計に自分を生きづらい環境に追い込む…例えば、貧困、孤立、周囲からの無理解、あらぬ誤解を招く、などの事態を招くことはなるべく避けたいものです。
ひねくれている開き直れれば楽になれるだろうと思うことは数多くあれど、実際に開き直って堂々とすることはメリットばかりとは言い難い。そのため、ひねくれた自分を認めつつも、どこか戒めや罰のような複雑な気持ちを抱いています。
生きづらさを感じていることで、自己啓発などの胡散臭い人たちに目をつけられることがある
ひねくれているために、生きづらさを感じることが多々ありますが、それを見抜かれてか自己啓発セミナー屋や情報商材屋や、スピリチュアル系の方々のようないわゆる胡散臭い人達とよくエンカウントすることが、ひねくれていることのデメリットだと感じます。
胡散臭い人達は、まるで『笑ゥせぇるすまん』の喪黒福造のように、心に空いた隙間を埋め手差し上げますよと、優しく好意を見せて近寄ってくるものです。
普段から人と爽やかに交流することにどこか息苦しさを感じている疲れもあってか、油断するとその優しさについ靡いてしまいそうになるのが、ひねくれていることの最大の弱点だと感じます。
当然ながら、こうした人たちの優しさは、他人を生きづらさ開放したいだとか、自由な生活を送らせてハッピーにさせたい、というような善意や救済からくるものではありません。
優しさに絆されそうになったものの、持ち前のひねくれ具合が功を奏して「こんなうまい話を教えてくれるのはなんか不自然」と感じて、自衛できる面もあるため、ひねくれている自分を全否定しなくても良かったと感じてしまう皮肉さもあります。
付き合いづらい人、めんどくさい人とレッテルを貼られ蔑みの対象になりやすい
↑の記事でも書いたように、ひねくれている人は、コミュニケーションをとることそのものがが円滑に進みにくい、加えて関係がギクシャクしてしまいやすさがあるため、一般的には「付き合いづらい人」「めんどくさい人」という汚名を授かってしまうことが多いものです。
SNSなどで円滑に、そして効率的で合理的なコミュニケーションが尊ばれる昨今において、会話を途中で遮ったり、話の流れを折るような真似をしでかすひねくれ者が、好意的に見られることはあまりないのも、至極もっともだと感じます。
ただし、ひねくれているせいで会話がしづらいからといって、その人をむやみに見下したり、まるで汚いものみるかの目で見られることそのものは、お世辞にも肯定できるものではありませんし、仮に肯定しよう物なら、それは自分が人間関係の変化や病気などで円滑な会話がしづらい人間になった時に、強い苦悩を覚える原因になると感じます。
自分でも不器用すぎて、もっとマシな生き方ができたではないかと自己嫌悪する
ひねくれている自分を認めているとは言っても、ふとした時に「ひねくれずにもっとマシな生き方を遅れたのではないのか」「ひねくれずにまっとうに生きて、人から見て恥ずかしくない生き方をできたのではないのか」…という、自責の念や自己嫌悪に駆られることが多々あります。
ひねくれていることが散々悪玉視されていること、そして自分でもひねくれていることがどれだけ他人に迷惑をかけたり、他人を不愉快な思いをさせてしまうかを、曲がりなりにも理解しているからこそ、ひねくれた部分を抑圧するようにしている。
自分でひねくれていることを認めつつも、同時にそれを抑圧して生きていく事に苦痛を感じているという、なんともめんどくさく不器用な生き方をしているという実感があるからこそ、「もっとマシな生き方があったのではないか」という、執着心を捨てられないまま、未練がましく生きているように感じます。
関連記事