メサイアコンプレックス(救世主妄想)は、困っている人を助けたい、救済したいという善意に溢れているように見えて、
- 自己満足のために場当たり的に助け続ける。
- 実は困っている人を見下し相手を不愉快にさせている。
- 悩みを根本的に解決せず、逆に更なる不幸へと追い込む。
などの、問題があります。
ここでいう救済は貧困、生活苦、災害ボランティア、医療・福祉といった高度で専門的な知識や技術が必要な救済だけでなく、友達ができずに悩んでいる、ネガティブな自分を変えたくて悩んでいる、ビジネスの悩みを解決したい…といった誰もが抱きがちな悩みも含みます。
救済が求められる様々な問題に対して「自分が解決すべきだ!」という使命感を抱くものの、根本的な解決に至らず余計に悪化させてしまうのが、メサイアコンプレックスの皮肉といえまます。
今回は、メサイアコンプレックスの克服で心がけることについてお話しいたします。
メサイアコンプレックスを克服するために
自分の救済が「ありがた迷惑」になりうる危険性を自覚する
困っている人を救済することが、常にありがたいものとして受け入れられたり、無条件に肯定されている…と言うわけではありません。
いわゆる「ありがた迷惑」のように、ありがたいことのように見えて実は迷惑になっていたり、助けられる側に余計な心配やプレッシャーを与えてしまうこともあります。
また助けられる側も「親切心や『誰かを助けたい』と言う純真さから自分を助けているのを自覚しているものの、結果としてただの迷惑になってている状況に指摘やツッコミを入れようものなら失礼だと感じて、控えていることも容易に想像できるでしょう。
「(ありがた迷惑であっても)せっかく助けてもらっているのに、そのことについてケチをつけるのは失礼である」と言う気遣いのせいで、ありがた迷惑だとはっきり伝えられず、自分の独りよがりな善意が暴走しかねない可能性についても自覚することが大事です。
助ける相手の気持ちや意見を汲み取る
困っている人を助けるときは、一時の使命感や正義感に流され衝動的に助ける事は控えるべきです。
衝動的な支援は
- 相手が今何に困っているのか。
- 相手はどのような支援を求めているのか。
- どの程度なら相手が自分の力で問題に対処することが可能(=救済する側の手助けが不要)なのか。
など、相手の気持ちや意見を汲み取ることなく、一方的に「あなたは困っているに違いないから助けてあげる」と善意の押し売りとしているのと同じです。
一概に困っている人といっても、その人がどのような支援を求めているか人それぞれです。
対話を重ねて相手の困っている事をしっかり把握した上で適切に助けていく。場合によっては自分の出る幕はないと判断できたら、潔く引き下がることも大事なのです。
他人を支援するのに必要な知識や技術を勉強する
メサイアコンプレックスの人の助け方は、どこか中途半端…悪く言えば、助けるのに必要な専門的な知識を学んでおらず、感情につき動かされるかのような助け方。精神論、オカルト、似非科学のような、胡散臭さや疑問点が多く見られる助け方になります。
特に、貧困、生活苦、災害ボランティア、医療・福祉に関わる問題などは、専門的な知識の無い人が個人的な感情や使命感に突き動かされて人助けを行えば、更なる混乱を招いたり、場合によっては怪我人や死人が出るリスクもあります。
無論困っている人にとっては衝動的な救済であっても安心感を得られるかもしれませんが、根本的な問題が解決されないどころか悪化してしまえば、衝動的な救済は無批判に肯定できるものとは呼べません。
なお、問題が悪化してしまうと、困っている人が溺れる者藁をも掴むかのように、メサイアコンプレックスな自分の救済を必要としてくれるため、「誰かを助けたい」と言う願望が満たすことができるとも分析できます。
しかし、この状況は冷静に見れば専門的な勉強もせず、衝動的に人助けをした結果として更なる困窮に追いやっており、決して見過ごせるものではありません。
言い換えれば、メサイアコンプレックスが行う救済は、他人の不幸につけ込み自己満足のために他人の人生を消費していると言ってもいいでしょう。
そうならないためにも、、専門の知識や技術を学び、問題の根本的な解決につながるような支援を行うことが大事です。
勝手に困っていると他人を決めつけて見下していることを自覚する
「困っている人の助けになりたい」と言う気持ちそのものは素晴らしいものです。
しかし、この素晴らしい考え方には、勝手に他人を「悩みを抱えている人」とナチュラルに人を見下して決めつける。そして、「そんなかわいそうな人を助けることこそ自分の使命である」と決め付け、独善や欺瞞に満ちた善意を覆い隠してしまう危うさが潜んでいます。
特に困っている事は何もないのに悩みもないのに「ねぇねぇ、あなた困っているんでしょ?私が助けてあげるから心配しないで!」と、いきなり詰め寄ってくる人に対して、多くの人が困惑や動揺を覚えるのも無理はありません。
親切心が溢れている素晴らしい人のように見えても、実は相手の事情を無視し、自分の私利私欲のために善意を押し付けてくる大変失礼な人とも思われるのも仕方はないでしょう。
言葉の節々に
- 「助けてあげる」
- 「私が何とかしてあげる」
- 「私の言う通りにすれば大丈夫」
と相手の立場や能力を過小評価し、自分こそが正義であると確信する歪んだものの見方(=認知の歪み)のせいで、自分は目の前の人を助けられないどころか、不愉快にさせている可能性を自覚することが大事です
助けたい人を一人の対等な人間として尊重する
メサイアコンプレックスは、助けると言う行為の結果として問題が解決し、悩みを抱いていた人が自分の元を離れる…、という、一見すればめでたしめでたしな状況に対して、「誰かを助けると言う願望を満たしてくれる人がいなくなる」と言うジレンマを抱えます。
「誰かを助けたい」でも「助けを求める人がいなくなるのは嫌だ」という相反する願望を抱えた末に、いつまでも自分のことを必要としてくれる困った人がいる状態…つまり、共依存関係に陥ることもあります。
こうした助け方は、問題の悪化、根本的なか解決の先送り、新たな問題が生じる原因になり、助けられる側からすれば好ましいものではありません。
困っている人が、自分の助けを求めなくなることを恐れて精神的に支配や束縛をするのではなく、助けた人の今後の人生や考え方を尊重して、一人の対等な人間として接していくことが欠かせないのです。
詐欺などの犯罪に巻き込まれるリスクについて自覚する
メサイアコンプレックスの人から見て困っていると思われる人は、必ずしも善良でやましさところが一つもない人ばかりではありません。
人によっては、
- 自身の金銭に関するだらしなさのせいで借金を抱え、他人の資産を利用してでも借金返済を考えている人。
- マルチ商法に多くの時間と金銭を費やして引くに引けない状態になっており、自分が生き残るための新たなカモを探している人。
- 法律や道徳、倫理に反する、反社会的行為(犯罪含む)の手助けをしてくれる人を探している人。
- たとえお互いに不幸になり世間からの理解が得られなくなろうとも、誰かに精神的に依存して破滅的な人生を送ることを求めている人。
など、救済が原因となり自分にも被害が出てしまう人もいるものです。
(医療行為などの人命に関わる緊急事態を除き)相手が助けを求めているからといって、相手のことをよく調べもせず即断即決で助けることを無批判に肯定できない理由がこれです。
勝手に困っていると決めつけて衝動的に助ける事は、関わると不利益を被る相手と関わりを持つリスクがあるだけでなく、知らないうちに犯罪に巻き込まれるリスクもあるという事実を、十分に自覚しておくことが大事です。
最後に、自分は特別な存在(メシア)であるという傲慢を捨て、現実との折り合いを付ける
メサイア(メシア、救済者のこと)と言う立場は、自分は誰かを助けられるほど立派である、偉大であり、まるでフィクションの世界の英雄(ヒーロー)のような立場と似ています。
それは、現実の自分に対して無力感や無価値感を感じている人からすれば、強い憧れの対象ともなります。
ですが、メサイアコンプレックスのように自分自身を救済者と思い込み、勝手に困っている人を作り上げて自己満足のために助けると行為は、現実と折り合うことを避けて傲慢なままで続けられる救済者と言う立場に固執している精神的な未熟さ故の行動とも言えます。
救済者と言うヒーロー的な立場に強い憧れを抱いて自分を重ね合わせていたり、ヒーロー的な存在とは程遠い自分へのコンプレックスを抱いている人にとって、自分はヒーローのような特別な存在ではなく、平凡で、未熟で、ごくありふれた普通な人間である…と言う残酷な現実を受け入れる事は、強い苦痛を伴うことだと思います。
しかし、そんな見たくない現実を見ることを拒み、身勝手な正義や善意を振りかざし続ければ、自分は救済者どころか、自他共に破滅や堕落に追い込む厄介者へと変化してしまうリスクがあります。
救済者にこだわり続ける自分が抱える傲慢さや未熟さと向き合い、現実の自分や社会との折り合いをつけていくことこそ、メサイアコンプレックスを克服には避けて通れないものです。
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